平和を祈り、亡き戦友の鎮魂を祈りつつ、精一杯町と共に生きてきました。喜びも・苦しみも幾年月、戦後しばらくして飛行機乗りから一転、町の商売人として過ごし、時代は今や子や孫・ひ孫へと変わりました。月日はあっという間です。
2016年4月、突然大きな地震に見舞われました、近隣の皆さんは家屋をはじめ精神的にも多くの被害を受け、今も復旧に苦労されていることでしょう。心よりお見舞い申し上げます。
併せて、町の文化交流会館敷地内の平和を祈る”碧空に祈る”石碑も被害を受けました。その後各方面に管理をお願いしていますが、それは碑が町の唯一平和を考える存在と思うからです。石碑は1997年(平成九年七月)に関係者の寄付により設置されました。関係者や戦跡を訪ねる象徴として多くの方々の知るところとなりました。しかし、時の流れは姿形を変えた史跡やその意味が持つ平和の尊さを忘れさせてしまいそうです。
石碑は一部の関係者と共に修復を致しましたが、その私も関係者も高齢となり今後の管理が気になります。”ここに飛行場があったんだよ!”とその意味を伝えたい。是非今後永代に渡り、市民・町民の皆さんに、平和を祈る象徴としての存在を大事に残して頂きたいと心より願っています。 久我
隈庄飛行場は昭和十四年(1939年)から建設が始まり、現城南町をはじめ周辺市町村の沢山の人達が連日勤労奉仕作業に汗を流して作られた。
昭和十六年六月、大刀洗陸軍飛行学校隈庄教育隊が開設され、以来四年間に将校学生、下士官学生、少年飛行兵、特別操縦見習士官、特別幹部 候補生の約壱千名のパイロットが巣立ち、各戦隊に配属され陸軍航空の中堅として活躍し、多くの若者たちが大空に散華した。また近隣の町村から多数の男女が軍属とて勤務した。戦局の推移に伴い飛行場は更に拡張整備され、実戦態勢に入り昭和二十年四月、教育隊は移転しかわって飛行第百十戦隊の基地となった。 この戦隊は最新鋭重爆撃機飛龍で編成された陸軍爆撃隊の中核部隊で沖縄作戦に出撃して多くの若者達が還らぬ人となった。
然し戦は好転せず、ついに昭和二十年八月十五日終戦を迎えた。
戦後五十数年を経過してこの飛行場跡は、大部分は農地に開放され、工場、住宅団地、県の諸施設、町の体育施設や文化センターがつくられ、今や町の新しい活力の源泉地として変ぼうしつつある。
かって若者達が大空に青春の夢を託し、或いは祖国防衛に挺身したこの飛行場が昭和の動乱を生きた歴史の一頁として後世に語り継がれることを願い万世の太平と若者達の鎮魂を祈願してここに「碧空に祈る」の碑を建立するものである。
石碑建立関係者
平成九年七月吉日
陸軍飛行第百十戦隊名会156名
・代表:牧 勝美
計243名
位置と地震で倒壊した石碑
文化交流会館の駐車場の奥にあります
昔この敷地も飛行場(南側)でした。
平和で静かな佇まいです。
今あるこの文化交流センターやトヨタの部品工場(アイシン九州)の敷地は元飛行場だったのです。